愛のことばとおろかさについて
認識
先日、お旦那にねだったら愛のことばを歌ってくれた。
お旦那は甘やかなものを愛するひとではあると思うんだけど、
本人が一人でいるとスピッツの曲は歌わないようで、お願いすると、ときどきうたってくれる。
曲の感じとしては、ベージュのブラベにさみどりのコーヒーという感じのカフェオレ感あふれる曲です。
もうひとつ加えるとしたら体温を吸って柔らかくなったシーツかな。そういう曲です。
愚かさについておもうこと
学生時代に、違う国の地下で大きな機械といちゃいちゃしていた後輩が、仕事以外の時間、
入会試験で知能指数を測る組織から出てこなくなって久しい。
彼も、気になったものというわけじゃなくても周辺視野にあったものを何でも覚えているタイプなんだけど、
本人曰く、
- 「知っているべきこと」かどうかを羞じらわず
- 底の浅さを悟られたくない一心で自分の立場表明を避けず
- ほんとうに分からないこと以外でもはぐらかしを多用しておくことで
あたかも元からそういう性格や思想であるかのような演出をせず話してくれる旧知でない社会人が多く - 言葉による確認を行う基準が合い
- 年齢幅が広く
- そこそこの規模があり
- 体を動かす自由参加の会を定期的に行ってくれる
そういうコミュニティとしてもっとも手頃なのだそうだ。
それがどの主観において正しいのかや、見え方についてはどうでもいいとしても、
ああ、戻れなくなってしまったんだろうなと思った。
興味の有無にかかわらず昔からなんでもよく覚えている人で(周辺視野の観測で、同じ靴を履いてきた回数を数えられるタイプだ)、
こと専科に関しては傑出した才能を発揮していたけれど、
それでも彼は質問すればなんでも丁寧に教えてくれたし、
自分の言ったことを忘れているようすの人間には何度でも説明を怠らない。
そういう人がこんなふうにどんどんくるまっていってしまうのを見ると、
ああ、さびしいなと思うことが多い。
愚かさを許さないのではなく、愚かさをわかちあう人間を厳しく見定めているだけなのだ。
それはだれでもしていることだから、なんでもないことだと思うけれど、どこかで閉じていってしまうところを見つめる作業は、いつでもすこしだけさびしさをともなう。
わたしのその感傷をこそ愚かさと呼ぶとはわかっていても、わたしはまだこのおろかさを完全に笑うほど距離を置けていないんだろうなあと感じられて、それはそれで、感慨深いなあとも、思うのだけれど。
できるなら、それでも期待して腕をひろげる愚かさを、宝物だと思うままで付き合いたかった。
いまもときどき外で会うと、すこし笑っていろんな話をする。
一緒に行こうと誘ってくれても、わたしにはそれは恐ろしい閉じ方に思えて、一緒には行けずにいる。
そういうことを思い出す歌なので、
お旦那が、優しいけど客体の強い感じのすこし温度のひくい声で歌ってくれると、
しみじみビタースウィートだなあと感じられてすごくいい。
いつか怖くなくなったら、少し参加して、
後輩の体感とわたしの感じたことについてお旦那に聴いてほしいなあと思いながら描いた、
お旦那の歌う「愛のことば」の絵でした。